おいてかないで。 足手まといになんか、ならないから。 □■□ あくる朝、何故だか身体がとても重かった。 重い上に妙にだるくて、顔は熱いのに寒気だけがぞくぞくと背筋を這っていた。 どうしたというのだろう。 昨日までは何ともなかったのに。 初めての経験に、頭が混乱する。 その内、いつまで経っても起きてこない私を心配したのか、彼が寝所にやってきた。 「…どうかしたのか?」 しかし一応私への気遣いなのか、帳には決して触れず、声だけで尋ねる。 私は帳の向こうにいる彼に、拙い表現で身体の不調を訴えた。 すると彼は「あけるよ?」と言い、私が小さな声で了解するとそっと帳を開け、此方の顔を覗き込んだ。 そして私の額に掌を当てると、 「ああ。風邪をひいてしまったようだね」 と、告げた。 風邪とは何かと尋ねると、 「身体がね、無理していたり疲れていたり、冷やしてしまったときになるんだ。身体が休みたいと言っているんだよ」 そう言って、何か心当たりはないかい?と問いかけてきたけれど、別に何もなかったので首を横に振った。 「ならきっと、季節の変わり目に、身体がついていけなかったんだろうね」 すぐによくなるよ、と彼はふわりと微笑んで言った。 ……少しだけ、安心した。 □■□ 今日は山を登るらしい。 パッチ村を目指すシャーマン達が皆そこに向かっているというのだ。 シャーマンの気を、持ち前のダウジングで探し当てられるリゼルグがそう言っていた。 だがあいにく、天候は酷い雪。 此処最近ずっと降り続いていたせいか、道はすっかり白く埋もれてしまっている。 (雪かあ) しかし修理の終わったスノボを背負い、北海道で生まれ育ってきたホロホロは久々に味わうその感触に胸を躍らせていた。 「ひさびさに滑りてーな。なあコロロ」 そう持ち霊に尋ねると、コロロも喜んで頷いた。 ―――その時に、ふと気付いた。 「……?」 いつもと違って、どこかぼんやりとしている様子に。 「? どうしたんだ?」 目の前で手を軽く振ると、ようやくホロホロの声に気付いたのかハッとする。 「あ……え、と…ホロホロ?」 「どうしたんだよ。ぼんやりして」 そう尋ねながら、「熱でもあんのか?」と冗談混じりにの額に手をあてようとする。 だが。 「だっ…だいじょうぶ!」 どこか慌てたように身を引かれて、伸ばしかけた手は宙を彷徨った。 そのままはぱたぱたと蓮の方へ駆けて行く。 そんな様子に、ホロホロは困惑した顔で、ぽりぽりと頬を掻いた。 「何だぁ…?」 「イヤッホロ――――ウ! 直ったボードは最高だぜぇ!」 風をきる感覚。 肌を刺す冷たい空気。 シュプールを作る澄み通った音。 細かい雪の粒を、一直線に滑り降りていく感覚。 気温とは正反対に、身体がどんどん熱くなっていく。 やっとボードの修理も終わって、雪も細かく彼にとっては最高のスノボ環境。 凍りついた川の畔で丁度良い斜面を見つけ、わくわくと心躍るまま滑り始めたホロホロは、全身で歓喜を表していた。 (っくうう―――! やっぱりいいなあスノボは!) そう浮かれてジャンプし、着地したとき。 ゴッと重い音と共に、滑るボードが何かに乗り上げた。 「お?」 やばい、と思ったときには既に遅く――― 「のわああああああああああ!」 そのまま転倒したホロホロは、巨大な雪だるまになって残りの斜面をごろごろと転がり落ちた。 悲鳴が尾を引いて山に木霊した。 「………何であいつは遊んでいるんだ?」 「しょうがねえよ、雪山はホロホロのふるさとみてえなもんだ」 呆れて嘆息する蓮の言葉に、葉が苦笑して答えた。 (あーくそっ……やべえ寒ィ) 雪にまみれて凍え、よたよたと歩きながらホロホロは大きなくしゃみをした。 あれからリゼルグに助けて貰い、何とか雪から脱出できた。 因みに他の仲間達は薄情にも冷たく、さっさと前を歩いていってしまい、慌てて追いかけて今に至る。 「やはりシャーマンたるもの、自然を甘く見てはいかんな…」 「オメーが言うな、オメーが」 竜にさえ突っ込まれた。 それに小さくちぇ、と口を尖らせたホロホロは、隣を歩いていたのほうを向いて、 「なあ! お前もそう思うよな?」 「…………………え? …あ………、うん…」 返ってきたのは生返事のみ。 (………?) やはりおかしい。 ホロホロは首を傾げた。 今朝からずっと変わらない。 (…具合でも、悪いのか?) ちらちらと横目で気にする。 やはり彼女は、ぼんやりと前を向いて黙々と歩いていた。 どこか焦点の定まらない視線。 そして、心なしか―――おぼつかない足取り。 (今朝より酷くなってねえか?) 段々本気で心配になってくる。 蓮は全く彼女の異変に気付いていないようだ。 それは吹雪で視界が悪いせいでもあるだろうが、何よりが。 蓮に話しかけられたときだけ、ふっと正常に戻るのだ。 だがそれはどこか無理をしているような。 慌てて取り繕ったような、そんな誤魔化し。 朝からずっと気になって仕方がなかったホロホロには、それが手に取るようにわかった。 本人が大丈夫だと言うから、余り深くは追求しなかったが… (少し……やばいんじゃねえか?) ホロホロの目線の先で、またがいつもどおりの笑顔を必死で浮かべていた。 何故か――蓮に悟られぬように。 吹雪の勢いは益々酷くなる。 視界も更に悪くなって、先頭を歩くリゼルグの手にあるランプの光ですらも掻き消えそうになってしまう。 轟々と唸るような風音に、雪を踏みしめる足音も聞こえなくなった。 (…あれ) ホロホロはふと、隣にがいないことに気付く。 最後尾だと思っていた自分の隣にいないということは… 慌てて後ろを振り向くと―――遥か後方で、ゆっくりと歩く姿が確認できた。 いつのまにか追い抜かしてしまったらしい。 とりあえず姿が確認できたことにホッとする。 そして、すぐにの元へ行こうと引き返したそのとき。 ふっとの姿が掻き消えた。 それは本当に一瞬の出来事で、思わずホロホロはぽかんと今まで彼女の姿がいた空間を凝視した。 だがすぐさまハッと我に返ると、雪を蹴り、急いで駆け寄る。 そこには――― 「……っ!」 雪に埋もれるように、倒れ伏したの姿があった。 その顔がやけに赤い。 慌てて抱き起こすと、異常なほどに高い体温を感じた。 の顔が苦しそうに歪んでいる。 荒い息遣い。 スッと腹の底が冷たくなった。 「っやべえ………おーい葉! 蓮! 待ってくれ、が!」 の身体を抱いたまま、前方に呼びかける。 だが必死に声を張り上げるも―― 雪は音を吸収する。声音ですら例外ではない。 そしてこの吹雪の勢い。 チラチラと見えていたランプの灯りは、ほどなくして消え去ってしまった。 同時に完全に遠くへ行ってしまう、仲間の気配。 ホロホロは何度も叫んだ。 だが誰も―――気付かなかった。 たとえ雪が降っていなくても、人の声など暴風で消されてしまうだろう。 吹雪の性質を熟知しているホロホロには、よくわかった。 「っくそ!」 とりあえず今は、を助ける方が先決だ。 そう素早く判断し、その華奢な身体を背負う。 (……軽い) それが余計に不安を煽った。 ざく ざく 無言で猛吹雪の中を歩く。 その背に、相変わらず呼吸の荒いが、ホロホロの上着にくるまれて、ぐったりと背負われている。 雪に踏み込む足跡が、二人分の重さで深くなっていた。 ホロホロは、一歩一歩慎重に進んでいく。 背中のに少しでも負担をかけないために。 だがそれは、先に行ってしまった仲間たちとどんどん引き離されていくことを意味していた。 (くそ……前も見えづれえし) 横殴りの雪は、どんどん肌の感覚を奪っていく。 しかし絶対に、背負う腕だけは緩めたくなくて。 耳元で微かに聞こえる息遣いと、力なく首に回された細い腕があるから。 不意にその腕が、ぴくりと動いた。 「ほ、ろほろ…」 「気付いたか?」 「ん…」 ぎゅっとその腕がしがみつく。 更に密着する体温。 その意外な柔らかさに、少しだけ、胸が高鳴った。 だけど。 「ごめん、ね……ホロホロ…」 「…何で言わなかった」 「え…?」 「何で言わなかったんだよ、具合悪いって」 ぐっと言葉につまる気配。 やはり。 彼女の様子が朝からおかしかったのは、気のせいでも何でもなかったのだ。 「蓮でも葉でもオレでも、誰にでも言えばよかったじゃねえか」 「……や…」 だがは首を弱々しく横に振った。 まるで何かを――恐れるように。拒絶するように。 「なんでだよ」 「……だ、って」 逡巡しながらも、ぽつりと告げられた次のの言葉に、ホロホロは愕然とした。 「――……言ったらきっと、足手まといになる、から…」 「…どういうことだよ、それ」 自然と声が低くなるのが、自分でもわかった。 「どういうことだよッ」 思わず声を荒げるホロホロ。 しかしはただ荒い呼吸を繰り返し、うわごとのようにぽつりぽつりと続けた。 「葉は、いってた……待つことも強さのひとつなんだって……。 わかってる、わかってるの、でも…………本当は、もう、やなのッ… 置いていかれるのはいやなの…!」 ごめんなさい、ごめんなさい。 弱くてごめんなさい。 (だって、せっかく元通りになったの) (また彼の傍にいられるように、なったの) 熱を帯びた声は、まるで何かを懇願するような。 必死で訴えかけるような。 その原因を瞬時に思い出して―――ホロホロは俯いた。 (……あのときの、か) 蓮が中国へ、己の憎しみの決着をつけにいったとき―― ひとり炎へ残された彼女は、ずっと泣きそうな顔をして、ただぼんやりとしていた。 自分が朝起きた時、廊下でそうやって佇んでいる彼女を見つけて。 その小さくて折れそうなくらいに細い肩が、朝日に透ける輪郭が、無性に抱きしめたくなるほど儚くて。 思わず声をかけようとしたら、葉が来てしまい、結局壁に隠れるようにしてただ様子を伺うしか出来なかったけれど。 『おいてかないで』 あの時と同じ、彼女の叫びが痛いほど胸に伝わってくる。 まるで親を求める子供のように 幼くて 必死で 残されることを、こんなにも怯えて。 そういえば、彼女は言っていなかっただろうか? まだ自分と会って間もない頃―― 蓮と暮らしている、と。 蓮に拾われたのだと。 ならば。 彼女にとって、『道蓮』という存在は、親にも等しい存在なのではないか。 それは血縁だとかそういう肉体的な結びつきなのではなく。 もっと精神的なものとして。 それこそ――世界のすべてに等しい存在。 にとっていなくてはならない人物。 それが 道蓮 「………ばかやろう」 ホロホロは小さな声で呟いた。 既には力尽きたのか、ただ荒い息をつきながらも眠ってしまった。 だからその言葉が届くことは決してない。 だけど。 「お前を足手まといだなんて―――オレだって、葉だって、リゼルグだって竜だって……ましてや蓮だって! 間違ってもそんなこと、思うわけねえだろうが!」 言わずにはいられなかった。 たとえ届かないのだとしても。 口に出さずにはいられなかった。 そして――― 無性に腹が立った。 みっともない、それがただの嫉妬だとしても。 「ッだけど……あのトンガリぼっちゃまの方が、もっとずっと大ばかやろうだ畜生…!」 彼女の心をこんなにも大きく占める存在に。 強く強く、嫉妬した。 その頃。 途中洞窟を見つけ、ようやくホロホロとの姿が見えないことに気付いた一行は大騒ぎだった。 「離せ! 俺一人でも捜しに行く!」 「馬鹿かお前、この吹雪の中出て行ったら、あいつら捜すどころかお前も迷っちまうぞ!」 「俺はまだ鍛えているからいい、だがはッ」 無理矢理外に出て行こうとする蓮を、必死で竜が宥めている。 リゼルグがペンデュラムを握り締めて言った。 「僕がダウジングをする! そうすればホロホロ君やの居所もわかるし…」 「居場所がわかったとしても、そこへ行くまでが大変じゃねえか。万が一一緒に迷っちまったら…!」 慌ててたしなめる竜。 それに見かねた葉が言った。 「とにかく落ち着け、蓮。リゼルグ。あいつらを心配しているのは、オイラ達だって一緒なんだ」 「だがっ…」 「たぶんホロホロもと一緒だ。ホロホロなら雪山の怖さも、どう動いたらいいのかも心得てるはずだ。の事は…今はあいつに任せるしかない」 「…っ…」 葉の真剣な口調に圧されてか、蓮が唇を噛み締め、入口の近くに座った。 だがその拳は、悔しそうにぎゅっと握り締められたまま。 リゼルグも、険しい顔のまま口を噤んだ。 道中で偶然会ったシャローナたちが、何も言えずにその様子を眺めていた。 (くそっ……どうして、どうして) 何故彼らがいないことに――気付かなかったのか。 己の不甲斐なさに吐き気がしてくる。 蓮はますます拳を固めた。 守るといったのに。 何故自分は気付かなかった。 いい加減に―― (いい加減にしろ!) ゴッと鈍い音をさせて、蓮は拳を地面にぶつけた。 後悔と怒り。 それはどちらも、甘さの抜けない自分への激情。 だが、それはリゼルグや竜、葉も同じだった。 だから痛いほどよくわかる。 蓮の気持ちが。 どうして気付けなかったのか。 どうして、どうして 何ともいえない雰囲気に洞窟中が包まれた。 ――――その時。 『クルックルクー!』 聞き慣れた、あの精霊の声が聞こえて。 「おお、よくやったぞコロロ!」 ざくざくと雪を踏みしめる音に続いて。 吹き荒れる吹雪の中から、一人の影が現れた。 |